魂の旅

スピリチュアルについて書いていく

スピリチュアルメッセージ|人を裁くのをやめると幸せになる


f:id:tarookadato:20190612121649j:image

マタイによる福音書7章1ー6で、「人を裁いてはならない。あなたが裁かれないようにするためだ。」と記されている。ひとがひとの、それも小さな欠点をあげつらう行為は、この地球上でこのさきも止まりそうにない。仕事などで「なんでお前はできないんだ!」という気持ちもわからんでもないが、つまり、実はそれは「なんで目の前に山があるがよ、邪魔や!」といってることとおなじことのである。

 

 

裁く行為は思考のどんづまり

 

誰かを裁く、行為は第三者からみても具合のよいものではない。読者のみなさまにしっておいてほしいのは、物事の結果は、小さな因果関係の集まりであり、結果を裁くというのは、

 

「過程の否定である。」

 

その人物が生をうけてから、その失敗とやらにいきつくまで、どれほどの細かい因果関係が生じたことか、想像を巡らせることは不可能だろう。すべての過程の一致のもとに、失敗と呼ばれる゛結果゛が現れる。仕事などで過剰に誰かのミスをつつくのは、じぶんはなんの創造性も発揮せずに、内面に抱えた怒りとか、嫉妬の捌け口として、感情を発散できる。裁くほんにんにとっては、生き方の根幹を成す部分であり、しかし無意識の場合が多い。ほんとうは、親にもっと愛してほしかったとか、孤独感をぬぐえぬまま大人になったとか、そういったものが別の形をとり、いかにも「大人」らしい理由をつけているにすぎない。

 

誰かを裁くときそのひとの欲求は一時的にかなえられるが、前向きな創造性が働いているとはいえない。

 

 

誰かを裁く要因

 

まず誰かを裁くという行為を形成する要因を2つ挙げる。まず、本人の心理的問題。つぎに観念の問題で、裁く本人が抱く正解以外はすべて不正解というエゴの現れにすぎず、また[結果論]にすぎない。

 

まず心理的問題の説明だ。この場合仮に、状況を仕事としておこう。シンプルに断言しよう。仕事というものを通して、その人物の性格が浮き彫りとなっただけだ。繰り返す部分もあるけれど、こころに抱えた欲求不満、怒り、幼少期の家庭環境の問題が、ある一つの現象に対して反応しているということ。

 

条件付きの愛しか与えられなかった可能性が高い。

 

「よい」ことをする(誰にとって?)じぶんを肯定し、「わるい」ことをするじぶんを否定している。ゆえに、そのルールを生きるうえで他人にも当てはめるのだ。

 

つぎに観念の問題である。

 

法廷速度で車で走っていたとする。追い越し車線でウィンカーをつけない後続車においこされた場合、腹がたつという感情が発生するのは理解できる。だが、怒りにのまれると追い越した車に、もし、急がねばならない深刻な理湯があったとしても、怒りのほこさきはドライバーに向かうだろう。

 

人間はちいさなころから周囲との関係のなかで、さまざまな観念をみにつける。だが、観念はあくまで観念であり、真実とは限らない。動機を無視して、行動と結果のみで物事のよしあしを判断すれば、真実はみえなくなる。人を裁くことをやめれば、目の前の山に対して「なんで山がある!」という不毛なツッコミをやめるだろう。