魂の旅

スピリチュアルについて書いていく

恐れを克服して傷つかない自分になる方法


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「もう傷つきたくない」そう感じながら、多くのひとがひび嫌なひとと会い、傷つけられたと感じながら生活している。仕事は我慢料だといわれても納得できないレベルで理不尽が降りそそぐ。会社、家庭、学校さまざまな場所でさまざまな納得いかない出来事がある。現代を生きるひとのためにスピリチュアルな視野をからめて、こんかいは傷つかなくなる自分づくりをご紹介したい。

 

 

恐れを克服して傷つかなくなる自分づくりをする

 

スピリチュアルの世界ではこの世に存在するエネルギーは愛と恐れの二つだけと説く。そしてこの世を生きるうえで、愛よりも恐れのエネルギーが大半をしめていることが事実だ。

 

相手を恐れて威嚇をしたり、出世を邪魔する存在を恐れてライバルを陥れたり、恐れから相手を傷つけることに現代人は慣れすぎている。恐れは゛病゛だ。

 

本来われわれは誰かと関わることで、その他人をじぶんの心理的な問題に巻き込む必要はまったくない。一人の人間として成立する者同士であれば、お互いに愛を与え合い発展することが可能である。

 

だが実際は、会社や家庭、学校という共同体において、優劣意識から相手の尊厳を傷つけるような関係においてでも、仲間意識を持つように教育されている。ほんとうに大切な人間同士の団結とは本来愛で繋がることをさす。愛を理解するためには、自身のなかにある恐れと向き合わねばならない。

 

なにがみえるだろう。嫉妬、トラウマ、劣等感などなど。ガンジーのことばを一部引用して、ひとが大人になるということは、「速度をあげつづける」ということではない。………ぼくたちが、大人になるということは、自己理解を深めるということだ。

 

 

多忙という環境で内観をさぼっていては精神と魂の成長はない。世の中の見方は何十年も変わらないということになる。一人一人が「一体なぜじぶんは人に対してこのような感情を抱くのだろう」と考えてじぶんをみつめはじめると、世の中は美しい方向に変わっていくはずだ。

 

なぜなら問題は人ではなく゛じぶんの感じ方゛にあったことに気づくからである。自身のなかに怒りの感情があれば、おなじく怒りを内在させる人物の感情と触れあう。そして、「あいつはなぜ、性格が悪いのだ」という。

 

その憤りは、相手の怒りではなく、じぶんの怒りを克服せねば消え去ることはない。相手は自身の鏡である。人生は鏡の法則だ。自身の内面を克服していくと、誰かの邪さから傷つけられるという現象が減っていくのだ。

 

プライドが高い人物に「仕事できないよね」といえば傷つくかもしれない。だけどじぶんが仕事ができないと日頃から感じているひとなら、プライドが高い人ほど傷つかなくてすむ。

 

平穏なこころを会得するためには、そのようにこころを整理する時間が人間には絶対に必要だ。「相手の発するエゴや邪さに、こころが反応しないじぶん作り」をするのだ。

 

ひとの多くの欠点を許し、相手の自己都合による多くの事柄には、一歩ひいて譲ってやればいい。譲れないもの以外は譲って、しまえば、それだけであなたの勝ちである。あなたは愛を実践したのだ。

 

大人になるということは、器を広げなくては年数が価値をもたないのではないか。傷つきたくなければ、自己イメージ含めて、大半のことは譲ってやることだ。譲ったからといってあなたの美点が消えるわけではない。むしろ徳を積んでいるのだ。

 

媚びるのではない。同情するのではない。「譲ってしまえば、相手はあなたから奪えない」

 

恐れという病は自己の内面を観察し克服していくことで治まり、傷つくことは自己認知の変化によって小さくなっていく。

 

 

 

スピリチュアル的に見た髪の毛の役割


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お坊さんは髪の毛を剃る。髪の毛には念がこもるとされ、よけいなものからの干渉をさせないようにするのだ。そして髪の毛はセットしたりして髪型を気にするため、よけいなこだわりを持たないためでもある。考えてみればロン毛のお坊さんがいたらなんかこわい。さてこんかいはスピリチュアル的にみた髪の毛を語りたい。

 

 

スピリチュアル的にみた髪の毛の役割

 

髪の毛は「神の毛」とも呼べる代物だ。そんなダジャレをいうのも髪の毛は、スピリチュアル的にみて目に見えないものと交信する一種の受信器官だからだ。髪の毛は本人の霊的感覚を宿す。

 

髪の毛が短い場合霊的な受信率は弱まり、髪の毛がながければ霊的な受信率が強まる。

 

髪の毛がながければ、霊的なものを感知しやすく、また髪の毛に念がこもるという特徴がある。

 

髪が増えると頭が重いというのは、なにも重量だけのはなしではないのだ。ひとは神社、人混み、公園とさまざまな場所へいく。そのときの場所の念やひとの念はもれなく髪の毛がキャッチしているというわけ。

 

髪の毛からじぶんに伝わった信号により、なんだか体調がわるいなとか、そのひ外部の触れた情報を理解させようとする。ひとは髪の毛がキャッチした事柄によって心身ともに敏感になることがある。

 

そして、髪の毛が長いときは、とびこんでくるインスピレーションが強く、直感も働きやすいという特徴もあり、チャクラどうように感覚器官としてはかなり優秀といえる。

 

ところで一度風呂に入るときに粗塩を頭にのせて湯を浴びてみると、なんだかじぶんの雰囲気が軽くなるのがわかるはずだ。それだけふだん髪の毛はいろいろな念を吸いとっているということ。

 

髪が伸びる人形のはなしを個人的に信じているわけではないが、切られた髪は人形どうように、霊的な入れ物となるのはよくいわれるはなしであり、念がこもるという意味では理解できないわけではない。

 

髪の毛は霊的器官で、念がこもるというはなしをさせてもらったが、そんなわけで髪の毛にとって一日の入浴というものは重要である。不浄なものを洗い流して、つぎのひには持ち越さないようにケアをしてあげることで、ふたたび軽い気持ちで生活できるようになるのだ。

 

そしてひび本人に、霊的インスピレーションを伝えつづける。髪の毛はまさに、「神の毛」なのだ。</p  

外国人のソウルメイトと出会った実体験


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ソウルメイトと出会った瞬間に、ビビビとくる直感が働くものだ。こころは自然と開き、憂鬱だった日々に色がもどる。これほど自己を刺激し、また優しくさせる存在はない。ソウルメイトはお互いの魂が充実し、愛のあふれる時間を共有する存在だ。

 

 

外国人のソウルメイトと出会った体験談

 

彼と出会ったとき、ぼくは一切の仕事のストレスを忘れられた。それほど、彼との価値観は一致し、はなす話題に事欠かなかった。ぼくたちは国はちがう。そのことに一切の問題はなかった。

 

日本人が忘れている昭和の家族的な問題は現在韓国にはなく、「食口」と呼べる家族的つながりが存在した。お互いによくわからない笑いのツボをもっていながら、はなしをするなかでよく笑い合った。彼にとって何がよかったのか、ぼくのなかのなにかが変わったのかはよくわからない。

 

一ついえることは、我々は互いの文化や習慣を忘れて、お互いの立場を尊重できたことだ。ぼくの持論になるのだが、゛たくさん話をしても縁がない相手は自然と離れていき、縁があれば無理をしなくても引き合う゛彼とはまさにそれ。

 

ぼくは一本気で、内面が熱い人物が好きだ。あまり曲がりくねった感情を経由することを好まない。こうした価値観からぼくは意固地かもしれない。

 

じぶんでときどきおもう。通変星「印綬」(四柱推命)の短所とされる、特定のひとにしかこころをひらかない、まさにそうだ。ことば数が少ないためひとから度々誤解をうけるなか、それでよいと感じるじぶんがいて、変えるつもりがない。

 

逆に周囲には大切な存在しか残らない。ソウルメイトと呼ばれるひとびとだ。妻、数少ない親交あるひとびと、これまでベトナムの友人もいたし、転居したさきで韓国の彼と出会った。手製のキムチをもらい、日本の漬物をおくった。

 

 

当然たまに彼のことばがわからないなんてこともある。以前ベトナムの友人とのあいだでもあった出来事でもあるのだが、特に問題ない。ニュアンスを理解することはことば以上に大切なことであるからだ。

 

人柄から行為、言語の意味を想像するのは、こころ通じない相手との゛合わせ話゛より遥かに容易く大切なことのようにおもえる。

 

そしてソウルメイトとの付き合いで気づいたことは、思考ではなくハートで会話するということだ。アセンションの特徴としてあげられる。運命の友人や相手と出会うには、己の内面の問題、カルマ的問題を解決していくことをする必要がある。

 

お互いにある一定の人間としての器ができあがったときに、相手からなにも搾取する必要がなく、与え合える人物として出会う。磨き、学びを得たときにその節節で出会う。そしてひとはまた成長するために、新たな縁と繋がっていく。その繰り返しだ。

 

ソウルメイトと出会った瞬間理解するのはたやすい。「このひととは縁があるだろう」と直感が教えてくれるからだ。</p  

あの人は運命の人?|ソウルメイトと出会った瞬間に気づく方法、見分け方


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ソウルメイトとは魂の伴侶、または中間と呼ばれる存在である。ソウルメイトには、単にこのような説明だけでなく輪廻転生における過去世からの繋がりを指摘する説がある。はじめて会ったのに他人とはおもえない懐かしさを覚えたり、親和性を感じるという部分で過去の縁を感じずにいられない。

 

 

ソウルメイトに出会った瞬間に気づく方法、見分け方

 

相手がソウルメイトであるかどうか、というのは理屈や出会った経緯よりも直感に頼る部分が大きい。出会ったばかりなのに、はなしをしていて、お互いに゛価値観゛が合うことがわかる。

 

からしっているかのように、懐かしさを感じる場合、相手に根拠のない好感を抱く場合は相手がソウルメイトである可能性が高い。

 

もちろんお互いを尊重し、間柄を深めるのは大切なことなのだが、ソウルメイトの役割というのは、出会うことでお互いの魂を成長させる役割を授かっている。

 

あなたはソウルメイトと出会うことで、大切なことに気づきこれまで培ってきた性格や思考の変容が生じて人間として成長するのだ。もちろん相手は過去世で恋人だったかもしれないし、婚約者だったのかもしれない。じぶんが母親で彼氏が実は前世で子供立ったという慈愛を感じる間柄もあるようだ。

 

一方で、嫌いなあのひとも、苦手な上司も、過去世からのカルマを解消させるべく出会ったか、あなたに気づきをもたらすために出会うのである。ゆえに広い意味では出会う人物すべてがソウルメイトという解釈も存在するのだ。こんかい語るソウルメイトのおはなしは、前者、過去世での良縁があった相手、また魂の伴侶という前提で語りたい。

 

 

ソウルメイトと出会った瞬間に、気づき見分ける方法として、一般的にいわれているのが、懐かしさを感じるということ。この部分は直感で判断するほかないが、ぼく個人としては懐かしさを感じるという表現以外に、「根拠のない親しみを感じる」というほうがしっくりくる。

 

これはおなじ価値観の共同体だからである。出会った瞬間に、親しみを覚え、落ち着き、優しい気持ちになれるために、瞬時にしてソウルメイトだと見分けることができる。もう1つは、相手といるとき、あなたが警戒心がつよい性格であっても、自然体なじぶんでいられるという特徴がある。過去からお互いをしっているため、物事にたいする感じかたが似ており、自然と打ち解け、笑い合えるのだ。

 

これも、出会って、数言はなせばお互いに打ち解け合える気持ちになるので気づくことができる。さいごに、相手の表情に安心するという部分だ。見つめ合えば優しい気持ちになり、何気ない表情一つに親近感を覚える。出会ったばかりなのに、なにかしてあげたくなる。

 

そして職場やサークルなど、共同体で一緒に過ごすうちにお互いの関係性が自然と構築されて親しくなる。親友とか恋人と呼ばれる存在はもちろんのこと、職場での出会いなどでも、ソウルメイトと出会うときは兆候があるので、まずはどなたとの出会いも大切にされるとよ。</p  

物で人を釣るではない?|スピリチュアル的にみた物で想いを伝える大切さ


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俳優の高倉健さんはご存知だろうか。寡黙なひとでありながら、人情味溢れる男で、日本問わず外国でも有名である。彼は空亡でいえば辰巳空亡である。辰巳空亡はことばで気持ちを伝えるのが苦手であるが、彼らの贈り物、つまり物には気持ちがこもっているとされる。「じぶん不器用ですから」というセリフのまんま、そして、いいようのない想いが物に宿るというのは事実のようだ。

 

 

物で人を釣るではない、物に込められた心

 

スピリチュアルに精通するひとなら、物には念が籠るという、すこし怖いはなしはご存知だろう。形のあるものは持ち主のこころを反映する。

 

よいものであれよくないものであれ。人形がよい例だ。世間では物をもちいて、ひとに取り入るという行為は、卑怯でみっともない行為として受けとられる。

 

しかし、高倉健さんの例でもそうだが、物をおくる行為事態が、誰かに取り入る行為ではなく、こころを伝える手段として存在するケースがある。

 

………中国での映画撮影のおり、高倉さんは、俳優として出演しており、傍らには三日間高倉さんに、傘をさしつづけた中国人アシスタンスがいた。撮影が終わったのち高倉さんは彼に短いことばをかけた。「三日間ご苦労様でした。疲れたでしょう」それだけをいうと、腕にはめていた高級腕時計を彼にそっと渡したという。

 

ほかの誰かがやると嫌みに映る行為も゛不器用゛な高倉さんがやるとそうならない。シルバーバーチの霊訓によると、ものごとを行うには動機が肝心であるという。

 

気持ちを伝えることが上手ではないひとがいるとしよう。そして、なにかの折りにプレゼントはマメにするほうである。仮にそんか彼が、ことばで伝えるちからを軽視してでなくって、心底の真心から物をおくるのであれば、それほど正直な如実なメッセージはあるまい。

 

つまり相手を想っての行為は、よい因果として実を結ぶというわけだ。逆に、不実なおもいで物でひとのこころを動かそうとするのは、その人物のこころが空なのでそうした発想にいたる。一時は実を結んでも、物のきれめが縁のきれめとなる。プレゼントをおくる側もおくられる側も、相手を想っていないのだから。

 

両者の違いは一目瞭然だ。

 

ぼく自身ズボラであまり物を送るほうではないけれど、想いを伝える手段として念頭においておきたい。</p