魂の旅

スピリチュアルについて書いていく

支配的な親は依存心が強い|スピリチュアル的にみた親子の関係


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さいきんは親子関係に関する問題が、以前よりもオープンに公開はれるようになり、ネット上でも親と子の関係における自由な意見が飛び交うようになった。幼い子供にとって親とは環境そのものだ。子供は価値観を尊重されて育つか、親から支配的な態度で接されて育つかで後の人生が変わる。スピリチュアル的視点をふまえて、すべての親子の問題に悩むひとのためにこの記事を書こうとおもう。

 

 

スピリチュアル的にみた親子関係と悩み解決の糸口

 

子供は親を選んで生まれてきたわけではない、という通説を覆すのがスピリチュアル的な観点だ。子供は生まれるまえに親を選択できる、というのだ。これは後ほど書く、実際の親子問題の悩みを解決することにも繋がるため書かせていただく。

 

「俺はもっともっと愛について知りたいな~」というがいる。

 

魂は愛するという能力を欠いた親を選んで、愛を体感できない幼少期をセット。そして自身の修行と成長のために、生まれてくるとされている。

 

どんな子供も将来は大人になる過程で親離れしていかねばならない。魂の成長という意味でも、さまざまな経験を積んで、じぶんの人生を生きていかねばならない。

 

そしてぼく自身の意見も含めおはなししたいことがある。もし愛が欠如した環境にいたとしても、ひとはそれを乗り越えて、じぶんの人生を進むことが可能であることをお伝えしておきたい。

 

 

………親子の役割逆転ということばをきいたことがあるだろうか?ふつう親が親の役目をして、子育てをするという構図、その認識は続いてきた。実際には親が子供に甘え、子供が親の心理カウンセラーになるなんて事例はざらにある。そういった親子関係にみられる場合、親自身が自立を果たしてなくって、未熟さからくる葛藤をすべて子供に押し付ける。

 

たちが悪いのは、愛、教育という体裁をとってそれを行う場合だ。押し付けは「支配」であるのだけど、本人無自覚ということが大半である。親も、またその親との関係で、愛による結び付きではなく、関係性による契約関係を習ったからだ。

 

子供の幼いこころは愛と教育という名のもとに、耐え難い束縛をうける。子供はつねに親のご機嫌を伺わねばならない。゛愛゛ということばは簡単に使われるけれど、愛は能力であり、五感を通して備わっている場合もあれば、備わっていない場合もある。

 

この部分は子供が大人になって理解するところであり、求めても、得られないという一種の諦念になっていく…。愛をしらない親は、間違った方法で子供との関わりを深めようとする。過干渉や無関心、すぎたることをする。

 

幼い子が親にわがままを通そうとするように、親が子供にわがままを押し付ける。じぶんが感じたことに共感してほしい。じぶんの味方でいてほしい。じぶんの好きなドラマは子供にも楽しいといってほしい。子供を理解するよりもまえに、じぶんが子供に理解してほしくて、ちょっかいをだす。

 

これは本当の意味での我が子の自立を妨げているということなのだ。愛をしらない親は、口では「親はいつまでも側にいるわけじゃないよ」などといいつつ、内心は自立できないために、いつまでも子供に影響力をもっていたいのだ。支配的な親はつまりは依存心がつよい。自己存在の獲得のために子供を必要とする。

 

スピリチュアル的な観点では、親のほうが、より魂の学びを果たしており、子供のほうが学びが少ないという、地球的法則はあてはまらない。

 

学びが深い魂が子供役を通して、幼い魂の親に、子育てを通じて成長と気づきをもたらすこともあるのだ。そんな環境を生きた子供は逞しい魂の持ち主である。あくまで、子供がいて親役ができ、親がいて子供役ができるということだ。

 

お互いに成長を得るためのソウルメイトだといえるだろう。過去世でのなにかしらの接点がある人物かもしれないがその辺りは定かではない。お互いの成長のために、ある時期に親と子が距離を置くというのはお互いのために大切なことだ。離れてこそ、自身の現状が理解できることもあるのだから。</p  

邪気を寄せ付けない日常的にできる方法


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邪気はお金を積まれてももらいたくないものだ。精神的なエネルギーを奪われたあげく、よこしまな気をねじ込んでくる。邪気をくっつけてくるひとは往々にして非常に強引だ。TPOなど意にも介さずよこしまなことばや態度で、自尊心を傷つけ、いたずらに相手を不愉快な気持ちにさせる。

 

 

邪気を寄せ付けない日常的にできる方法

 

邪気がからだを苦しめる原因は二つ。それが相手からの邪気によるものが原因なのか、自身がつくりだす邪気が原因なのかである。じぶんで邪気をつくりだしている場合は、じぶん自身もどこかで意識している可能性がある。

 

憎しみや恨みだけでなく、じぶんの思い込みや思考クセに自己嫌悪しているときなども、よい気を発しているとはいえない。じぶんがつくりだした邪気の難点は自身がつくりあげたものなのに、「あのひとの邪気をもらった」と勘違いする部分だ。

 

深刻な悩みを抱えていたりして、こころが曇ってしまうと、つい、ひとのせいにして、思考パターンが泥沼化という負の連鎖ができる。じぶんの波長が低い状態で、気の高い神社に参拝にいき、浄化されている過程で「気分が悪い、ここはよくない場所だ」と感じることとおなじだ。

 

まず、じぶんのひびの波長を整えておくことが一番肝心なことである。内面を見つめ、認知を整え、よい思考をして、生活に望むということだ。つぎに、相手からの邪気、会っている最中、会った後、ぐったりして眠くなり、めまいがしたり、無気力、肩こりがおこったりする。

 

じぶんがつくりだした邪気との違いは、自己無力感がとほうもなくやってくる点。

 

なぜかといえば、邪気を放つひとというのは「相手の価値観」を認めないひとである。それゆえに気に入らないことがあれば否定的なワードを多くつかい、相手を疲労困憊させるのだ。

 

じぶん以外の現実がなく、相手おかまいなしに強引なはなしの展開にもっていく。なぜかといえば邪気を放つひとは、条件付き、または極端な価値観を身につけているから、また他人にも白黒思考を押し付けるのだ。

 

「こうでなければならない」という意思がつよく、その多くは「現実を思い通りにしたい」という欲求が隠れている。極端な優劣、善悪、被害感情など、ぶつけられた相手はたまったものではない。

 

そこで、現実的にそれらを寄せ付けない方法がある。一番肝心なことはじぶんのつくりだした邪気でも書いたけれど、じぶんの内面を整えること。そしてもう1つは「共感を示さない」ということにつきる。

 

相手の共感なくして、邪気を送りこむことはできない。ひとは誰かの欲求をかなえるために生きているのでも、じぶん以外のものを目指すために生きているのでもなく、じぶんのために生きている。共感ができることには、自然と共感し、できないことには無理に付き合わう必要がない。

 

そして、邪気を感じたとしても、努めて、意識しないようにしておくことが肝心だ。もし、どうしてもという場合は塩(粗塩)をいれた風呂につかるなどして、心身を浄化するのがよいだろう。</p  

ブレサリアンを目指して2日に1食生活を開始した感想


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1日1食といえば、理解のある方からすればかなりストイックな生活習慣ではなかろうか?だいたいの場合、1日1食生活をしていることを周囲に伝えたときの反応は、え?と困惑されることのほうが多かった。そんななか2日に1食となると、一般的にはもはやわけがわからない。アンチエイジングとして、また生活習慣としての理解も得られず「あなたはなにがしたいのですか?」とおもわれるはずだ。

 

ここまではよろしいだろうか?………で、「ブレサリアン」を語るときなどは、まず、ベジタリアンを説明するノリではなく、スピリチュアル的要素をふまえてはなさねばならない。なぜなら、一般の方々には理解不能だからだ。ブレサリアンは食べ物や健康の嗜好ではなく、教義に基づいた生き方だからだ。ブレサリアンを引合いに、ぼくもまた個人的教義に基づき、2日に1食生活の中身を語ってみたい。

 

 

2日に1食生活の中身

 

ブレサリアンとはなにも食べずに生きるひとびとをさす。青汁のみ、また、水分のみで生活するブレサリアンもいれば、水分すら断ち、光(プラーナ)のみで生きるひともいる。つまりリアル仙人だ。

 

食べずに生きるという考え方そのものが、一種の教義である。

 

こういうと語弊が生じるかもしれないが、少食に慣れていくということはすなわち、自己探求を進めていく道へ突入したといえる。

 

1日3食から1日2食になるというくらいの変化であれば、どなたでも可能であろう。しかしさらに食を細めていくとなれば、内面的な部分を変容していかねば先は厳しい。

 

日本でも修行僧や、個人的教義に基づく者以外の行為はあまり耳にしない。

 

ひとが一般的には考えられないほどの少食を行う場合、ある程度、感情的、心理的、情緒的、カルマ的な部分を打開していく必要がある。

 

ぼくが少食になったきっかけは、一度、人生に行き詰まり、精神的にも不安定だったなか、ある朝、数学の計算式が解けるように、これまでの内面的な問題が解決するという奇跡のような出来事があったからだ。

 

その後、自然と朝食を食べるのが苦痛となり、1日2食になり、気づけば自然と1日1食になり、現在2日に1食となった。奇跡的な出来事の後から自然と瞑想をはじめ、ときに断食をし、みずからの内面と向き合った。

 

そうだ、1日1食となった当初、ぼくは、観念的な問題に直面していた。これまで身の回りで起こった出来事に対して、周囲の反応にベクトルを置くのではなく、ぼく自身の感じ方の修正を試みていた。

 

………なぜじぶんがそう感じるのか、現象に対して抱く感情はいつごろ、どのようにして生まれたのか。そんなことを繰り返していると、自然と、以前ほど、腹が減らなくなったと気づく。

 

空腹は心地よい時間だ。さて、体重などは、1日1食になり、ほとんど落ち着き、2日に1食になると、変動がほぼみられない。こんなことをはじめるまえは、食いしん坊なじぶんにはおよそ縁のないはなしだった。

 

修行者はなぜ断食をするのだろうと、納得がいかない。だが、いまはわかる。食欲に打ち勝つことは他の欲も、三欲を制御するちからとなるのだと。ブレサリアン、聞いたときは「ホンマかいな?」すこしの疑念を抱いたものだが、少食が進うちに、ふつうに信じられるようになった。

 

 

して、回り道をしたけれど、2日に1食となった現在のはなしをする。1日1食のときと同様にいまも肉体労働をしている。おなじ時間、おなじ内面、だけど、精神的、心理的にはかなり落ち着いている。自身のなかにある「物事はこうでなければならない」という観念的束縛から解放されていることが最も大きな変化だ。

 

自己執着が減り、エゴ、無理をした自意識というものがさよならをつげている。アンチエイジング的な説明はもはや不要かもしれない。健康嗜好的な内面は1日1食までであると感じるし、気になる方はこちらを読んでほしい。

 

2日に1食になると、1日を暇でもてあますこともなくなる。どこか、じぶんが爽やかな雰囲気に包まれて、優しい気持ちで、物事に取り組める。1日1食で感じていた、夜が暇でたまらないという感覚もない。なんというか、気持ち的に毎日がハッピーである。嫌なことがあっても、浄化できる速度がはやい。

 

2日に1食となり、どんどんじぶん本来の本質に近づいているような心もちである。また、1日1食のときは、腹が減るのをまっていたが、2日に1食となると、腹が減らないことがふつうになる。そのため、予想していたよりもストレスは少なくてすんだ。最近では食事の栄養という観念よりも、食のもつエネルギーを意識するようになった。量よりも、食物がもつエネルギーの質が大切だと感じる

 

これからも少食を通じて、スピリチュアル的な教義を追及していきたい。</p  

1日2食を1年間続けた結果


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現在ぼくは2日に1食である。え?意味がわからない?2日間に一度だけ食事をするのだ。きっかけはちょうど自身の感情面が大きく変化した時期から始まる。食事量が減り初めた当初、こんかいは1日2食を一年間行っていた時期の体調や、その結果に触れてみたい。

 

 

1日2食を一年間行った結果

 

幼少期から二十代後半まで1日3食、いや、もっと、食べていて、大食いの部類にはいる人間だった。そんなぼくが1日2食となった理由は、先に触れた精神的な変化がきっかけだ。

 

それから少食は進みつづけ、食事と人間の内面には関係があるというぼくの信念が生れた。

 

体調の変化をおはなしもするつもりだけど、すこしまってほしい。ぼくは十代から精神的な不安定さに悩まされていたおり、結婚したにも関わらず、あるひ仕事にいけないと伏せってしまった。布団に横になり漠然と「このままでは先に進めない」そう強く感じた。

 

朝になると、なにかの謎が解けるように、なぜそれまで精神的に悩まされてきたのかが、数学の計算式が解けるように解けたのだった。どことなくからだが軽くなり、気持ちも軽い。これは神さまがくれた奇跡なのかもと、現状に感謝した。

 

そのころから仕事へいくまえに朝食をとるのが苦痛になり、ブラックコーヒーだけ一杯飲んででかけた。

 

体力的問題はなにもない。むしろ3食食べていたときのようなダルさがなく、ハードな仕事でもスタミナもつづく。

 

20年以上神経性の下痢に悩まされてきて、仕事中たびたびトイレに立っていたのが改善され、心身ともに整ったのである。

 

昔から朝は「しっかり食べんと力がでん」と教えられ、学校にも仕事にもいつもしっかり食べて向かっていた。当時は食べたあとのダルさや、昼間の眠気などに疑問を抱かなかったが、2食になると、そうした症状が改善されたのである。

 

生きることすべてに活力がでたのだ。栄養学的には誉められたことではないかもしれない。体重はというと、3食のころからすれば、変動が少なくなった。以前は5~7キロの変動があったが、2食となり変動は2~3食キロ。一応書いておくと、1日1食となり変動は1~2キロ2日に1食となった現在では、ほぼ変動なし。

 

1日2食の体重変動くらいであれば、ふつうに仕事をするひとならすぐに適正体重に戻せる範囲ではないだろうか。

 

実は1日1食のころより、1日2食だった時期のほうが顔色がよく、パワーがあったことは否めない。江戸時代までは日本人は1日2食だったことをご存知だろうか?そして、現在ほど栄養に重きをおいて、食べまくってはいなかったころの2食である。夜はロウソク、コンビニの光もない。

 

 

ぼくは1日2食になってから、体調が改善し、1日1食になり食べ物と人間の内面の問題に関係を感じるようになった。

 

啓示のような出来事により、内面が整理され、軽くなる。内面の感情的、生理的、カルマ的問題の解決が行われてくると、ひとは少食でいられる。ライトボディ化といわれる現象だ。

 

少なくとも個人的には、食べ物を娯楽として楽しむ考えからすこしづつ離れていこうとおもう。スピリチュアル的に食べ物は栄養を供給するというよりも、ひとにエネルギーをわけ与えているという発想重視だ。

 

でなければ、栄養学的な説明では肉体労働をしながら、現在の2日に1食生活は成り立たない。

 

1日2食になったころから毎日瞑想をつづけ、内面を観察している。1日1食になったのはごく自然と、「2食も食いたくねえな(個人的に)」と感じたからで、2日に1食になったのも「1日1食だと食べ過ぎだな(個人的に)」と感じたことがきっかけである。

 

そのころには、感情的問題はかなり解決し、過去のトラウマの癒しも進んだ。観念的束縛がほどけるごとに、精神は自由になり、食事から与えられるエネルギーへの依存も減ると、現在では解釈している。

 

ライトボディ化が進むと、直感は冴え渡り、瞑想も深いものとなる。少食がほかの欲望も抑え、非常に、森羅万象と調和的な生活をおくれるようになった。

 

これまでふつうに食事をしてきたひとに1日1食をおすすめはしないが、1日3食のひとには、1日2食の健康をしってもらえるとうれしい。実質的に、内臓がやすまる時間が増えるからデトックスになるし、集中力も増す。

 

 

1日2食を一年間行ってみて、精神的な安定効果と、内臓の改善が一番うれしいと実感したことだ。表情も3食食べていたころと比べて、引き締まった気がする。

 

もし、スピリチュアル的に少食に感心をもち、個人の教義に基づいた根拠で行うならば、素晴らしいことだとおもう。この部分が一番説明が難しく、感覚的道理として理解しているということは霊性を発達させてきたひとなのだろう。

 

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1日1食を5年間続けた結果

 

1日1食から2日に1食になった結果

1日1食を5年間続けた結果


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昔から食事に対していわれる格言がある。「1日3食は動物の食事、1日2食は人間の食事、1日1食は神の食事」と。ぼくが考えたわけではない。2食になると、1食ぶんは神さまに捧げる、1食だと、2食ぶんを捧げたことになるのだという。江戸時代までは日本人は1日2食がテンプレートであった。

 

………1日1食を5年間続けた。昼間は肉体労働、夜はネットの仕事をしながら。現在は2日に1食にシフトしたので、これを契機に1日1食を行ってきたうえで、体調や精神の変化などを、感想と結果をふまえて書いてみたい。

 

 

1日1食を5年間続けた結果

 

1日1食は昨今珍しいものではない。芸能人や、お医者さんなど、実行しているひとはたくさんいる。

 

ぼくは決してダイエット目的ではじめたわけじゃなく、彼ら同様に個人的な教義に基づいて行ったのだ。栄養学的に、1日1食はもはやダイエットではなく、説明できない行為だろう。

 

ダイエット目的なら栄養士からはきっと、゛からだに悪い゛と太鼓判を押される。それに、「痩せますよ」と、説得されてもこの方法は選びたくないだろう。かなりストレスが溜まるはずだ。

 

だから1日1食をするひとはなんらかの個人的確信と意図があるはずだ。さて、そのなかでダイエット効果はといえば、「労働しながら行ったとしても、痩せ続けるわけではなく、ある程度の体重にしぼられて安定がつづく」そしてみなさまが気になるアンチエイジング効果というものも実際かなり感じるところだ。

 

生物は食事をしていない時間帯はからだの免疫力をあげる時間である。食事という行為は実はとてもからだがエネルギーを消耗する行為だ。

 

お昼にお弁当を食べると、どこか眠いとかだるさがやってくる経験があるだろう。ゆえに、空腹の時間がながいということは、内臓は休まるし、免疫力はあがる。

 

人間くらいのものだ、毎日3食食べないとと、習慣をつくり栄養過多におちいるのは。野生動物に成人病などはない。からだに不調がある場合は食事に頼らず、食べないで治す。将来的にそれは賢い選択肢としてひとびとにも受け入れられるかもしれない。

 

 

免疫力に比例して容姿にも影響がでる。肌がきれいになり、アレルギー的なかゆみも減り、体臭が少なくなるという部分は実感する。腸内壁の汚れもとれるため、デトックスに繋がり、内臓の美しさが、表面的な美しさに繋がる。

 

よくダイエットの宣伝で「キレイは内側から」といわれるあれはほんとうだ。ただし、何かを摂取してキレイになるという理屈ではない。ぼく個人の意見をスバリいえば、現代は過食であり、足算でなく引算が必要だ。

 

ぼくが1日1食をはじめたきっかけをおはなしすると、自然に1日1食になったというほかない。自身の内面を観察するため瞑想や断食をおこなうなか、自然と、3食の食事量がつらくなり、どうじに食べ物の質を選ぶようになった。

 

ライトボディ化である。個人的には内面的な葛藤を解消していくことと、食事の変化には関係があるとおもっている。スピリチュアル的に意識の浄化が進むと食事量が減るとされている。

 

そういう説明でもなければ、ぼくのように肉体労働をしながら1日1食をやるなんて、栄養学的に無理だ。食事を栄養を摂取する方法として、ではなく、エネルギーの摂取と解釈すると、少量でも自身に合ったエネルギーの質と量をとればよいのである。

 

なにより、1日1食の精神に与える効果はすごいものがあり、ささやかな幸福感とともに、1日中、フラットでいられる感覚を手にできる。1日3食のときのようなダルさや倦怠感がなく、毎日爽快だ。

 

今年ぼくは36歳になるが、健康診断ではいたって健康である。逆に毎日3食健康的な食事をしている知人などが「炭水化物を控えるようお医者さんから警告されている。」アレルギーも増えた。そのような理由から、1日1食は健康的だと個人的な根拠ができあがったのである。

 

 

非常に教義的なはなしではあるけれど。では逆に1日1食のデメリットも体験からご紹介しよう。まず慣れないうちは1日が長い。この退屈さというのは、なにもすることがないのに、ポケットにはガムすら持ちあわせていないような虚無感をさす。

 

これは慣れるしかない。次第に時間のつかいかたも変化していくのだから。

 

それよりも、もっと、深刻で一番盲点だったのが、風邪をひいたときの゛熱゛に関することだった。免疫力があがるためあまり風邪はひかなくなるのだが、ふとしたきっかけで高熱がでたことがある。

 

1日1食になると代謝の関係であまり汗をかかなくなる。そのため、高熱がでても汗がかけない。そんなわけで高熱がつづいてしまったわけで………。万能という健康法はないのだと実感する。

 

それを差し引いても1日1食のメリットは多いので、興味のある方はすこしづつ食事量を調整してみるといい。

 

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