魂の旅

スピリチュアルについて書いていく

なぜ悪い事ばかり起きる?カルマを解消することで、人生好転していく


f:id:tarookadato:20190715120808j:image

 

ひごろから万事塞翁が馬という、腹づもりをしておくことは人生を充実させるための必須要項かもしれない。実はひととひとは、ぼくたちが認識できないほどの精巧にして完璧な因果関係によって繋がっている。ひとは理不尽な状況に陥ると、つい「なぜなんだ!」と運命を責めたくなる。なぜじぶんが突然、不幸に見舞われるのか、なぜ急に愛するひとと離ればなれになるのか、と。これらを含めてカルマの法則によるものだという他ない。

 

 

カルマとは

 

春に種まきをすると、秋には収穫の時期が訪れる。ぼくたちは、過去世から今世まで種を蒔きつづけている。

 

蒔いた種は刈り取る、簡単に説明するとカルマとは、所作のことである。業ともいう。良い行いは良い結果をもたらし、悪い行いは悪い結果をもたらすという法則性のことである。

 

グランドを走っている子供がいるとして、転ぶか、そのままゴールするかということも、その子のカルマが影響するというわけだ。大きなことから小さなことまで、寸分違わず結果に現れるというこっちゃ。

 

何世代まえの過去世で行った好意であっても、過去で清算できなかったカルマは、別の世で清算せねばならない。

 

仮にあまりに重いカルマをつくってしまった場合は、カルマを清算するだけの強い「魂」になる必要があり、そのため、本人が成長するための期間がもうけられ、何世代もおくれて大きな試練が与えられることもある。これが避けられないとすれば、人生とはなんて、辛いものだろう。

 

カルマを解消するには?

 

ついつい考えてしまうのが、きのうは友達のおやつを勝手に食べちゃったから、きょうは私のおやつをあげよう。的な発想で、カルマがプラマイゼロになるというような単純な法則ではない。

 

それならばよけいわかり辛いって?ゆえに万事塞翁が馬なのである。多くのひとは、ひごろ良心的にひとに接しているだろう。そのうえで、人生なにがおこるかわからないという俯瞰的視野を会得せねばなるまい。

 

何の落度もなく、ある日突然不幸に見舞われることがあるのだ。幸せなこと不幸なことに、あなたがどう対処したかが肝心なのだ。

 

前向きな対処の繰り返しで、あるひ以前ほど、理不尽な目に合わなくなったとおもう。それは、起こるべき事柄が変化したこともあるが、あなた自身の内面が強くなったのだ。身の回りに起こることがすべて学びだと俯瞰的にとらえるだけでも、物事への対応は変わってくる。まずは内面を観察して、偏った認知を修正することが、カルマの解消に繋がるのだ。

 

そして、決して焦ってはいけない。物事は急には好転しない。時間をかけて学びを深めることが大切である。

 

 

おわりに

 

ひびの行いは、明日のじぶんをつくる。内面が変われば所作が変わる。幸福な出来事を引き寄せるのは、まず、幸福を幸福だと受けとれるこころを養うといい。ちいさな努力だけど、そんなちいさなことの繰り返しが運命を変えるのだ。

スピリチュアル的に見た幸せとは?


f:id:tarookadato:20190714121158j:image

つぎの二文は一見矛盾しているようで、矛盾していない。「人間一人きりでは生きられない。」「人間一人でも生きれるようでなければならない。」さてどちらが正解だろう。実はその真意を理解することが幸せに生きることに繋がるのだ。スピリチュアル的にみた幸せとは?

 

 

スピリチュアル的にみた幸せ

 

「彼が幸せならいいさ」どこかしらに問題を感じさせる人物にでも、このことばは適用できる。もちろんそれが間違いなどというつもりはない。だけどもし、ひびの生活で、ご飯は美味しいし、友達もいるのだが、なんだか虚しいという場合は、すこし一緒に考えてみよう。

 

スピリチュアル的にみた幸せという定義は、「の成長」これにつきる。ひとはみな、自身のカルマを解消し、魂をより磨くために霊界と呼ばれる場所から地球に誕生するというわけだ。

 

なぜそんなことをするのかといえば、霊界には、物質的な価値観は存在せず、お金がもの申すような仕組みではない。霊的な成長こそが幸せなことなのだ。霊的な成長こそが通貨であり発達段階によって、じぶんの居場所が決まるわけ。

 

余談だけど、霊界には音楽も、絵画もあるといわれているんだぜ。そこで冒頭のはなしに戻る。誰かがいった。「人間は一人では生きられない」また誰かがいった。「人間は一人でも生きられるようでなければならない」これは人は、他人という鏡を通してでなければ、じぶんのアイデンティティーは発見できない。そういった意味では、一人きりではじぶんがなりたたない。だけど、じぶんのアイデンティティーを確立したあとであれば、じぶんの魂を磨くために、例え一人きりになろうとも生きねばならない。ということだ。

 

じぶんのアイデンティティーに気づき、人生の冒険に遭遇しながら、ついにそれが確固たる自信になったとき、誰かと比較する必要がない幸せを体得できる。ふと「天上天下唯我独尊」などと、いってしまうかもしれない。

 

もし、友人と離れた後でさみしい気持ちになるのなら、その関係は良くないものだ。美味しい料理を食べても感動しないのであれば、愛が欠落しているのだ。五感で感じるものは、愛とともに感じた経験がなければ感動は生まれない。こころから大切におもえる人と生活を共にし、思いやりをもって誰かに接することをこころがければ、おなじくフィードバックが得られる状況へと変化していく。

 

 

おわりに

 

スピリチュアル的にみた幸せとは学びを通した「魂」の成長である。道のりは険しく、一筋縄ではいかない状況もあるだろう。だが、一歩全身し、あるときは行き先が雲って感じたとしても、その繰り返しのなか、以前よりすこしづつ成長しているじぶんがいる。

 

ソウルメイトと出会う予兆|ソウルメイトをわかりやすく説明する


f:id:tarookadato:20190712210602j:image

ソウルメイトとは魂の伴侶、または仲間という意味である。じぶんのソウルメイトをしりたい、魂のかたちが似たもの同士は結びつく。また、それぞれが人生で抱えた課題をクリアするために、われわれは、その時期に必要なソウルメイトと出会っている。

 

 

ソウルメイト

 

カロリーメイトと、つい口ずさんでしまうくらい、ソウルメイトということばもいまや、さまざまなひとの口から流暢に発せられる。

 

ツインソウル、ツインレイ、ソウルメイトはそれぞれ異なる。

 

アバウトな説明だが、ツインソウルは自身と波長の似た人間。世界に複数存在する。

 

ツインレイは魂の片割れであり、唯一無二の相手。みずからの半身。お互いに魂の成長をある程度成し遂げたすえに出会う。ソウルメイトは世界に大勢いるし、マクロな意味では、出会う人すべてがソウルメイトだ。自身に学びと、気づきを与える存在だ。

 

ソウルメイトとの出会い

あなたはすでにソウルメイトと出会っているといえば、驚くか、記事の信憑性を疑うかだろうか。だが、実際にあなたのまわりには、家族、職場、友人、がいるだろう。彼らはみなソウルメイトである。

 

ツインレイはあなたの魂の片割れとして、あなたを探しているといわれるが、ソウルメイトは、あなたが出会ったすべてのひとのことだ。

 

例えば学校で仲のよい友人が五人いるとする。それはグループソウルといい、お互いを成長させるため、お互いのカルマ解消のために、集まったメンバーなのだ。例えば内面に怒りをもつ人どうしが、引き寄せの法則により、引き寄せられる。

 

表面上穏やかでも、内面に怒りがあれば、おなじカテゴリーにふりわけられ、「お互いクラスメイトですよ」というわけ。人生でうまくいかない理由があなたのなかにあるから、その問題に気づきなさいとうことだ。みんながみんな、相手を鏡として、じぶんを発見するために集まったソウルメイトなのだ。

 

 

そしてときに、嫌な上司役として、気難しい親役として、あなたに必要なことを与え、また、あなたからの影響を得るために登場する。人生は舞台と例えられることがあるけれど、まさにそのとおりだろう。

 

 

ソウルメイトと出会う予兆

 

一つのソウルメイトとの関係が解消された時、つまり、あなたが成長し、一つのグループソウルから抜けた、もしくは抜けたく感じはじめたときが、つぎのソウルメイトと出会う予兆だ。その時期はあなた自身がじぶんの成長を十分に感じているときでもある。あなたの成長度合いにより、以前の人間関係は変化し、あなたは新たな゛課題゛にチャレンジする機会をえる。必然的にグループソウル、ソウルメイトが登場する。

 

あなたが成長したときこそが、一つのグループソウルとの別れとなり、次のソウルメイトと出会う。

 

人との出会いに偶然はない。ゆえに、出会う人のすべてが、じぶんの師のような存在といえる。

 

ボクたちは魂を磨くため、地球という舞台で、さまざまな役者と出会い、気づき成長していく。生まれてくるときにそのストーリーはじぶんが決める。「前回地球へ繰り出したボクはあまり、謙虚さが身につかなかったから、厳しい親から生まれるか」とか。そうやって、魂を磨き、転生の必要がなくなるまで、その繰り返しである。

 

 

おわりに

 

嫌なあの人も、憎いだれかさんもソウルメイト、気づきをえるために、存在していると考えると、すこしだけ府に落ちないだろうか?好きな人、大切な存在、それらがすべて必然性のとりもつ事柄なのだから、なんとも神秘的である。</p  

エナジーバンパイアからエネルギーを奪われなくなった話|きょうから実践できる事


f:id:tarookadato:20190709120745j:image

エナジーバンパイアとエネルギーを奪われる者は、演劇の舞台俳優同士である。お互いに共通する役割があってはじめて、エネルギーの搾取が行われるのだ。こんなことを書けば違うといわれそうだが、エネルギーを奪われるというのは、エネルギーバンパイアと同質の要素がじぶんにもあるということだ。最近エナジーバンパイアの、エネルギー搾取に合わなくなったので方法をご紹介したい。

 

 

エネルギーを奪われる仕組み

 

ブロッコリーの芯をおとすくらいハッキリと断言しよう。エナジーバンパイアにエネルギーを奪われるこころの仕組みは

 

依存心

 

である。エナジーバンパイアを嫌いながら、完全に関係が断絶することを恐れているのだ。エナジーバンパイアには幼い頃から見捨てられ不安がある。

 

そしてエネルギーを奪われる当人にも少なからずそうした要素がある。傷ついたインナーチャイルドが分裂した意識に、エナジーバンパイアは意識チャンネルを合わせるという妙技をやってのける。

 

エナジーバンパイアがあなたの弱みに意識を合わせるのが容易いとすれば、こころにおなじ問題があり、彼らはそれをかぎ分けるのだ。

 

「食えるか、食えないか…。」まさにバンパイア。

 

なかには目を合わせるだけで、無意識に侵入し、思い通りにしたいという欲求を押し付け、エネルギーを、搾取することを可能とする者もいる。ボクはそんなエナジーバンパイアとであった。目を合わせた直後すぐに嘔吐した。(メデューサのように目を合わせてはならない)あなたの無意識を掴まれてしまうと、どんどんエネルギーがでていく。

 

そんな状態をスピリチュアル的にいえばエナジーバンパイアバンパイアとエーテルコードという目に見えないコードで繋がってしまったと表現する。そして、なかには意図してエネルギーを吸いとる技をつかう強者もいる。魔法ドレイン!懐かしいなおい!

 

人間1日に生産できるエネルギー量には限界があるから、あまり質のよくないエネルギーを浴び、エネルギーを搾取されるのは避けたいところだ。エナジーバンパイアのどのような事情にも同情せず、なるべく依存心を共有しないようにしたい。

 

あまり頻繁にエネルギーを奪われる場合、無慈悲といわれても、エナジーバンパイアに同情心をみせず、共感もせず、関心をもたないようにして、エネルギーが出ていくのを防がなければいけない。ミイラにされてしまう。

 

エーテルコードが繋がってしまった場合の対象策は、こころのなかで、丹田あたりから伸びたコードを想像し、手にみえないハサミをもつ。そして◯◯(エナジーバンパイアの名前)との縁を切ると断言し、コードをカットする想像をするのだ。

 

だけど、本来はエネルギーを奪われないために、内面を整える必要がある。さてその方法とは?

 

エネルギーを奪われない方法

 

エネルギーを奪われない一番の方法は「エナジーバンパイアに関心を抱かない」ことだ。

 

相手のことばに、じぶんをどうにかできるちからはなく、影響を受けないと、こころにつよく決めるのだ。この手段は非道徳とはいえない。

 

関心を抱く者から搾取しようとする行いを避ける手段にすぎないからである。

 

無視ではなく、相手に共感できないことをハッキリと態度でしめすだけのことだ。つまり、嫌なものは嫌、共感できないものはできないと、ふつうの反応をするだけのことなのだ。エナジーバンパイアからとってみたら、支配させないのは悪、という感覚だから、あなたのそんなふつうの反応に怒りをおぼえるだろう。

 

しかし、実際にエナジーバンパイアの事情と無関係な者からすれば、支配、非支配の関係をしいられる行為は溜まったものではない。

 

ボクはこうしたふつうの行いをつづけるだけで、エネルギー搾取をされなくなったので、参考にしていただきたい。そして自意識を相手レベルに合わせる義務はないのだとつよく主張したい。

 

 

おわりに

 

エナジーバンパイアを通じて、自身のこころの問題に直面した。対策は上記で述べてきたけれどもっとも必要なことは、じぶんの内面と向き合い、こころを整えることだといえるだろう。。</p  

愛を動機として生きてみた結果|孤独を乗りこえて


f:id:tarookadato:20190707120748j:image

悩めるひとには朗報だ。どれだけ朗報かといえばこの世には二つの選択肢があることをしっていただけることである。人生には多くの選択肢が、一見存在する。朝スーツを着て出かけて、夜遅く満員電車で帰宅。一ヶ所に留まることのできない性格が、世界各地を回るジャーナリストととしての才能を開花させた。どのような人生の選択肢をしたとしても、物事をおこなう動機は、「愛」か「恐れ」かのどちらかである。

 

 

スピリチュアルからみた愛

 

まず断っておくが、ここではなす内容は、決して過度な内容についてではなく、日常における指摘としてとらえてほしい。スピリチュアルからみた愛は、この世でたった二つのエネルギーのうちの一つ。つまり、恐れと愛のうちの一つだ。

 

恐れは、憎しみ、劣等感、自己嫌悪、自己無力感を生む。恐れというボックスのなかには、自己破壊的な要素がたくさんつまっているのだ。仕事などで、ひとの行動を裁いたり、責めたりするのも恐れを動機としている。ひとを責めることでじぶんを社会的に、人間的に、ズレのない存在として正当化しようとする心理だ。

 

愛のある対応はそれとはまるで違う。ミスをした相手はどんな人間であったのか?どのような心境だったのかを考慮してあげられる。

 

いまから書く部分にアレルギーを示すひとはご遠慮していただいてよい。前置きしたところで、ひとりひとりが愛を実践することは、地球全体の波動をあげることであり、ざっくりいえば生まれた使命である。人間社会で、肉体をもち、精神、魂を磨き、それをもっとも尊いものとして、霊界へもちかえるのだ。霊界での通貨はお金や肩書きではなく愛である。愛だけが価値を持ち得るのだ。

 

恐れは、思考、感情ともに停滞しており、愛は健全な思考が、前向きな感情を形成する。愛を動機としていきるひとと、恐れを動機としていきるひとでは周波数が異なる。

 

引き寄せの法則にも関係しており、いきる動機づけがあまりに異なる者同士は出会えない。出会うとすれば、ご自身のカルマによる問題、自己成長に関わる部分が関係しているであろう。

 

愛と孤独

 

人生の苦境にあり、愛の実践に目覚めてからのボクは、さまざまなボクに出会った。他人という姿をした、怒りっぽいボク、気弱なボク、ずる賢いボクだ。愛を実践するうちに、人間関係が変わっていった。

 

それはなんともいえぬ喜びである、そのように魂が理解していた。だが、愛の実践はなんと孤独な道かと理解する。いきる動機のズレが周囲との関係をどんどん遠ざけていき、現在も加速している。そんななか、おなじく愛を実践するひととの関係はかけがえのないものとなる。

 

誰かと一緒にいても寂しいと感じ、別れたあとさらにその想いが深まるということがある。そういった場合は付き合っている関係の繋がり自体が寂しいものなのだ。ひとは本来ひとりで生きられる強さがある。その強さを身につけるまではとても孤独だ。だけど、愛が発現しないことはもっと孤独なことだ。だが、恐れからくる孤独はいつかおわりをむかえる。あなたの魂が気づきを深め、内的問題が解決したときにおわる。

 

愛を動機とした関係ならば、深い感情の意思表示が可能となり、お互いに与え合い発展できることに気づく。そうした反応は動機の異なる間柄では発現できない。動機の整った相手をまえにしてはじめて自己を表現する意味を理解する。愛を動機として生きてみた一つの結果は、

 

愛は人間に自然なかたちの自信をもたらすということだ。

 

 

おわりに

 

これから愛を実践するひとは、ときにおおきな孤独を感じるかもしれない。しかし、愛にいきることを諦めずにつづけてほしい。ボクたちは愛を実践する仲間である。